父・安積登利夫の生い立ち



父の年齢から考えると、僕らのこの業界との絡みは、
かれこれ70年の歳月が経つ。
父は、昭和8年に福島市で生まれ、
太平洋戦争後に満州から引揚げた苦労人だ。

同戦争で両親と死別。

歳上の二人の兄は戦地に赴いており、
頼れる身内は3つ上の姉だけだった。

その姉も生きていくために、
「私のことは構わないで良いから、自分ひとりで生きていくように」
と言われた。

満州から引き揚げて故郷福島で7歳下の弟を寺に預け、
父の本当の人生が始まった。

中学校1年生1学期中退。

そんな学歴しかない。

住み込み、三食付であれば、どんなところでも働く覚悟があった。


創業者・安積登利夫の回顧録

洋服業との出会い

幸いなことに、東京・台東区浅草橋に久喜テーラーというところで
住み込みで見習いとして働くことが出来た。

何もできない人間を一から仕事を叩き込んでくれた。


非常に厳しい店だったが今思い返せば、大変な幸運であった。

手先の間違いには、遠慮なくモノ差しで叩かれた。

真冬の時期、お湯の出ない水道を使い、いつもきれいに店を磨き上げた。

そんな下働き生活から徐々に仕事を覚え、
一人前の職人として活躍できるようになった。

当時その店は、中曽根康弘さんも顧客に持つ東京随一の店で、
全国ペンギンクラブの初代会長を務めた方がオーナーであり、
大臣賞にも何度も輝く技能優秀な店であった。

しかし修業は厳しく、何人もの仲間が志半ばで店を後にしていった。

10年経たないとモノにならない。

そんな常識がこの業界にある中、
この店で14年の歳月を経ていよいよ独立する。

親方からの独立



27歳で独立にあたり、不動産屋に駆け込み、物件契約をするが、
遺伝的に顔が若作りの為、親方が代理で契約をしてくれた。

しかし、これが後に本格的にこの店との決別を産む事件と
発展するのであった。

当時、縫うことでしか洋服に関わっていない者が
お客様の獲得方法など分かるはずがない。

しかし、独立してすぐに店は軌道に乗った。

なぜならば・・・・。

当時は風呂が家にあることは少なく、近所に銭湯が多数存在していた。

そこで私は、仕事を終えて銭湯に行き、
近所のお客さまの背中を流してあげたり、
シャワーブースがない当時の銭湯で髪を洗うためのお湯汲みをしていた。


職場では、お客様と対面で顔を合わすことはほぼない。

私たちの作業場は、お客様のいる接客スペースとは隔絶された場所で、
一針一針縫うことに集中している。

しかし、極まれに親方が留守をしている時にお客様の対応をしたり、
お客さまから頼まれて、急な直しを接客スペースまで
取りに行く時などに顔を合わす。

その時に
「ここの兄ちゃんか?」
と気づいてもらえることが嬉しかった。

また、8月は特に暑く、洋服の「よ」の字も見たくないほどで、
クーラーのないこの時代、洋服屋は見向きもされない。

しかし、我々は生きるために働かねばならない。

当時の洋服の職人は、固定給は一切ない。

完全出来高制で雇用され、仕事のない店はすぐに職人がいなくなる。

コンスタントに仕事がある店ほど、
職人にとってはありがたい店なのである。

技能優秀で定評のある修業先の久喜テーラーですら、
真夏の時期は親方も職人も腹を出して寝ているほどの
暇さを持て余す状況であった。

そこで私は、暇で暑い夏だからこそできる行動をした。

それが無料御直しだ。

洋服は経年すれば、ところどころに痛みが出てくる。

縫い目のほころびや、ボタンがゆるんだり、
ズボンの裾のまつりの部分に足の指先が入り、解けることもある。

それらの直しの御用聞きを店の自転車を駆使して行った。

暑い夏の日、暇でイラつく親方の姿を見るよりも、
自分を歓迎して冷たい飲み物を出してくれるお客様のところに出向く方が
よっぽど良かった。

たくさんの御直しの中には、無料で行うものもあれば、
多少の料金を頂戴する場合もある。

この行動は、針仕事を嫌う奥様には大変喜ばれた。

暑い時期、そういうことをしながら乗り越えた私は、
大変忙しい充実した日々を送った。

しかし、それを見ていた親方は、
「忙しいのは当たり前。お前がやっているのは所詮タダだからな。」
と発した。

私は
「こんな馬鹿に自分は使われていたか。」
と思うと、悔しくて夜も眠れなかった。

しかし・・・

秋口、少し涼しくなると、店は私を指名するお客さまで益々忙しくなってきた。

あの張り切った兄ちゃんいるかい?

そんな嬉しい注文が殺到したのだ。

自分が汗を流すことで、お客さまへ貢献ができ、
結果として自分への信用が上がることを、身をもって学ぶことができた。

数年後の私の独立にあたり、
久喜テーラーは、同じ名前で店を出すことを許した。

いわゆる“のれん分け”だ。

腕があってもお客様をどのように獲得するか分からない者にとれば、
看板は大事だ。

それを受け入れ、私は形の上での独立を果たす。

そして、継続していた無料の御直しサービスの効果も発揮し、
夏には本店を大幅に上回る実績を残していった。


数年が経ち、仮店舗の不動産の契約更新の時が来た。

初めて聞かされた契約内容。

お金はすべて自分が出していたのに、契約者が親方の名前になっていた!!

すぐに親方の元に駆けつけて抗議した。

「そんなことがありますか?詐欺じゃないですか!」

すぐに店をたたみ、親方とケンカ別れをし、目黒で再スタートすることになった。

親方が台東区で店を出すことを嫌ったからだ。

再スタートした6畳一間のアパートは、
店ではなく、自宅兼作業場だ。

店としての家賃もかからない気楽な生活だ。

台東区内のお客さまとは距離があるが、
訪問販売することでいくらでもお客様は増えた。

もちろん空振りもあるが、それは、こちらの勝手な都合なので仕方がない。

そんな生活をして、再度、創業の地・台東区で
アサカテーラーとして再出発をする。

台東区小島町だ。

御徒町と蔵前、浅草橋の中間で問屋の多いエリアでもある。

ラッキーなことにそこで人生を変える出会いがあった。

球界の盟主・広岡達郎さんとの運命の出会い



当時、読売巨人軍のキャプテンをしていた
新婚時代の広岡達郎さんが近所に住んでいた。

広岡さんの体型は、超いかり肩で、東京の有名な店で洋服を作っても、
そのままの体型が出るためにそれを嫌い、
わざわざ大阪のどこかのテーラーで服を作っているという話を聞いた。

私は、近所に住む広岡さんを店先で待ち伏せ、
毎回挨拶をし、
新婚当時の奥様から針仕事を強引に奪ったところから
我々との本格的な関係が始まる。

アイロンのかけ方から簡単な汚れの落とし方等多岐にわたりお話をし、
徐々に奥様との信頼関係を構築した。

その時だ!

広岡さん自ら東京の洋服屋さんの気に入らない点を明かしてくれた。

気に入らなかったら無料(ただ)にします!!

自信をもってこの言葉を辛口の広岡さんに言うことが出来た。

洋服つくりで一番難しいことは、
本人の好みを把握すること
だからだ。

身体に合わせた服を作ることは、
ある程度の技能があれば、何とかなる。

しかしその方の好みが分からないから、
いくら注文服で身体に合っていてもお客様は満足しない。

身体に合わせるのではなく、
お客様の好みに合わせるのが“真の”注文服なのだ。

広岡さんの一番気になる点を完璧に抑え込むことで、
それ以降、彼は大阪に行くことはなくなった。



読売巨人軍への出入り許可



安積さん、ジャイアンツに来ないか?

広岡さんからの呼びかけで当時多摩川にあった
読売巨人軍の合宿所に行った。

誰でも入れる場所ではないが、
広岡さんが事前に連絡をしてくれていてすんなり入れた。

1、2軍合わせて60名の選手登録。

その中に洋服屋がすでに6軒出入りしていた。

私は、嬉しかった。

「これだけ売れるのだ。」

と思ったからだ。

他の洋服屋が自動車で営業する中、
自転車で多摩川を渡り合宿所に向かう日々。

王貞治さんとの出会い



そして、ついに若かりし王さんと出会った。

「洋服屋さん、誰の紹介で巨人軍に入ったの?」
「広岡さんです。」
「広さんの紹介ですか?すぐ作りましょう。生地持って来ましたか?」

話は早かった。

なぜなら広岡さんは当時“12球団一おしゃれ”と言われており、
その全ての仕事を私が担っていたからだ。


それから、王さんは才能を開花させ、
ついにホームラン王に輝き、
ほぼそのタイトルを不動のものとした。

私は、王さんのウェディングスーツを作ることはもちろん、
王さんの親戚中までお客様とさせていただくまでに愛された。


当時、王さんは新宿にお住まいで、伊勢丹をはじめとする
すべての百貨店から結婚式のスーツを無料で作らせてほしいという
要望を受けていたが、その一切を断り、
お金を払って私にご用命いただいた。


ただただ、嬉しかった。

ご用命を受け、
しかもお金も頂き、
結婚式までご招待いただいた洋服屋は日本で1軒しかない。

これが私の唯一の自慢だ。

巨人軍に出入りしていた洋服屋で、技術のある洋服屋はなかった。

全ての同業者を撃破し、独占した。

また、トレードで巨人軍を追われた選手が他球団に所属し、
私を呼ぶことが多くなった。

当時、在京の日本ハム、ロッテには、お客様がどんどん増えた






大リーグ選手からのご注文



そして、当時の後楽園球場近くのホテルに宿泊する地方球団選手からも
声がかかるようになり、
仕事は夜の12時を過ぎることもしばしばであった。

シーズン終了後にメジャーリーグの優勝チームが来日し、
日米での決戦をすることがあった。

その際、来日した現役バリバリの大リーガー選手たちの服を
仕立てさせていただくこともあり、
ロサンジェルス・ドジャース、セントルイス・カージナルス等々には、
たくさんのお客様をかかえた。





あまりにも注文が殺到し、
本格的にアメリカに進出することも考えたほどだった。

と言うのも、読売巨人軍の正力オーナーと
ドジャースのアイク・生原氏と懇意にさせていただいており、
巨人軍の紹介で、ロサンジェルス・ドジャースに乗り込むことが出来たからだ。

前年、日本で注文を頂いた選手と再会もし、
たくさんの受注をして帰国するなど、私の海外訪問は大成功であった。

イギリス・ヘンリープールでの武者修行



また、アメリカに入る前に、洋服の本場・イギリスに武者修行に行った。

ロンドンの聖地・セビルローにあり、
英国王室御用達のヘンリープールで働くことが出来た。


アポなしで、店を訪問し、片言英語を駆使し
マネージャーのエドワード・ミッチェル氏と話をした。


「あなたの来ているスーツは、誰が縫ったのか?」

と聞かれ、

「うちの店の見習いが縫った。私ならばもっとうまく縫える。」

とウソの話したところ、すぐに工房に入るように促され、
私の英国での修業が始まった。

日本では服を作るにあたり、
上着は上着を縫う人、ズボンはズボンを縫う人と決まっていた。


しかし、本場イギリスではそれを更に細分化されており、
上着の袖を作る人、芯造る人、肩入れをする人、ポケットを作る人など、
ブロック縫製というシステムが当時すでに出来上がっていたことには、
驚かされた。


私は、洋服つくりの一番の要の部分である肩入れを任された。




日本でも急所であるこの部分は、
得意中の得意で鼻歌交じりに作業をすることが出来た。

英国でのヘンリープールでは、インド人も働いていた。


そこで彼女のする仕事は、穴かがりだけだ。

しかもうまくて速い。

私はその前の年に全国穴かがりコンクールで4位を受賞したほど、
自分で言うのはなんだが、うまい方である。

全国クラスで5位以上は、素人目には判断がつかないくらいで、
審査員も虫眼鏡をつけ必死にあら捜しをするレベルだ。

その私が、インド人にはスピードで叶わなかった。

これがブロック縫製の恐ろしさで
ある一部分に特化した仕事だけを徹底的にすることで、
一流の技術者の一部分をも超えることが出来ることを、
身をもって知ることができ、
私の洋服業経営はもちろんのこと、
技能者養成にも役立つ体験となった。

その数年後、長男・武史をロンドンの修業先にアポなしで連れて行った。




2001年である。

その際、
「働いてくれてありがとう。」
というマネージャー、エドワード・ミッチェル氏からの手紙を大切に持参し、
ヘンリープールで働くスタッフに見せたところ、
エドワードはすでに亡くなっており、再会はならなかった。

また、私が働いていたころと工房の場所が変わっていたため、
質問をしたところ、最近引っ越したことが判明し、
「この日本人は、本物だ」
ということが改めて証明され大歓迎を受けることになった。

そこで昭和天皇の型紙や、吉田元首相の型紙等を拝見できたことは、
我々にとって貴重な体験となった。


注文洋服しかない時代から注文洋服もある時代へ



注文が殺到する昭和40年代、
独立してわずか5年後に現在の台東区寿の土地を取得し、
事業を拡大した。

日本でもイージーオーダー専門の工場が出来、仕事の募集を開始した。

JMチェーン・日本ソーイングのボランタリーチェーンの全国展開だ。

これが、技能のない洋服屋がテーラービジネスに参入する機会を作った。

その新しいビジネススタイルに弊社も参入することにした。

と言うのも、弊社が忙しくなる前段階から技能者養成をしており、
多い時で約20名を超える住み込みの人を抱えて経営をしていた。


しかし、すでに日本も高度成長期を終え、
成熟成長に入りかけのころ、
技能者養成に10年をかけられるほどの体力は
どのテーラーにも残っていなかった。

東海道新幹線開通、博多延伸、東北新幹線開通、
青函トンネル開通・北海道まで延伸と鉄道が伸びるに従い、
地方と都心は結びつきが強くなっていった。

そうして、地方のテーラーは、中核都市を除くと
ほぼ廃業に追い込まれる事態になった。

そのころ弊社では、技能者養成をしつつ、
営業の素質のある人で希望者を配置転換し、
浅草橋に支店を作った。


その店は開店から12年間営業を続けることとなる。

その時代、自分の修業先の店、久喜テーラーが廃業した。

原因は、後継ぎがいなかったからだ。

一番弟子で私の兄弟子がその店を継いだが、
所詮テーラービジネスは甘くはないのだ。

技能だけで生きることが出来れば、
弊社は、もっと繁盛するはずである。

洋服業経営で一番難しいことは、
お客様を獲得し、満足を与え、そのお客様の再注文を頂くとともに、
新たなお客様を紹介していただくことを続けられるかどうかの循環だ。

自己中心・自己満足の服作りでは、商売として繁盛はしない。

日本全国の腕自慢が集う技能コンクール大会上位者の名前を見ても、
名前以上に繁盛している店は一切なかったし、
有名な店がコンクールに出ているわけでもなかった。

技能ある者は、お客様の満足を売る店ではなく、
業界で「先生」と呼ばれるようになり天狗と化していたのかもしれない。

また、巷で名前の通る店は、単純に売名だけがうまい店で、
もっと探せば腕の良い店はある。

そこで私は、業界の講習会に参加し、
とてもためになった講師の先生のところに、
別途日を改めて個人的に面会を求め、
自己研鑽のために教えを乞いに伺うことを習慣化していた。

しかし、講師の先生で、言行一致している人は
“全員”と言っていいほどいなかった。

そんなに立派なことをお話しする先生であれば、
余程のお店を構え、
人作りにも熱心で後進もたくさんできているであろう。
私の悩みも理解いただけ、解決する手段も持っていよう。
そうかと思いきや、そんな人は皆無に近かった。

少量個別受注生産方式のハンドメイドによるオーダー紳士服は、
技能者養成の難しさや、安価な大量個別受注生産方式の登場により
緩やかに落ちていくことになっていった。

世の中の流れは、完全に既製品や、
大量個別受注生産方式に流れが傾いていった。


ハンドメイドからの脱却



大量個別受注生産方式で作られたスーツは、
技能の向上もあり一気に広まることになる。

しかし、その工場を支える人間は、レベルの高いハンドメイドの技能者で、
かつ人とコミュニケーションのとれる限られた人しか成功できなかった。

洋服は縫えるが、その技術・技法を伝えることのできない人は通用しない。

昔の手習いや、目で見て覚えるやり方はでは、機能しないのだ。

現在、日本各地に著名な紳士服を作る工場があるが、
とりわけ技能が高いとされる工場には、
私が養成した弟子が工場長や、総責任者として会社の一翼を担っている。


これは、大変ありがたいことで、現在の弊社に各種の情報をもたらし、
流行はもちろん、数年後に流行るであろうデザイン等を事前に把握可能となり、
常に新鮮で斬新なデザインをお客様に提供することが出来た。

少々早すぎることもたまにはあったが、
時代が常に後から追いついてきた。

例えば・・・
平成30年現在、ズボンの形が従来のぴちぴちタイトなノータックのラインから、
1タックへとシフトしてきている。

弊社では5年以上前から1タックのズボンを推奨しており、
昨今時代が追いついてきているのがまさしくそれだ。

既製品は、身長185cm体重70キロ程度の、
何を着ても、ある程度格好の良いモデルを使い、
服を着用させて、写真を撮って、雑誌に宣伝して流行を煽っていった。

モデルが着るとカッコいいノータックのズボンも、
雑誌を購読する、普通の体型の人が真似をすると、
“すぐに汗ばんで汚れる”
“生地が傷む”
“擦り切れる”
“2年も持たない”

など、大いなるお怒りへと発展してしまうのだ。

昭和から平成へ



さて、時代は、平成に入る。

大学を卒業し、某大手コンピュータ会社に就職した
長男・武史が退職して家業に戻ってきた。

彼は、幼いころ、
自宅兼作業場で住み込みの従業員がいるところでよく遊んでいた。

作業場で遊びながら、自然とモノに触れ
洋服屋としての醸成を身に付けていた。

着るものも小さな頃から小うるさく、
サイズ感の合わない服は一切着用しない小生意気な子どもであった。

親としては、成長することを見越して少々大きいものを購入するが、
彼は一切見向きもしなかった。

閑話休題。

当時弊社は、バブル景気が最ピークに達し、
落ちかけた頃に借金コンクリートながら9F建てのビルを完成させる。


当時、坪250万円の建築費がかかったが、
約30年経った現在でも近所の新しいビルに全く見劣りしない本社ビルだ。

私も働きに働いた人生を送ってきたため、
夢の賃貸収入暮らしを試みたわけだが、
世の中甘くはなった。

銀座の某不動産会社が
「いくらでもテナントを紹介する」
と言っていたのでこの事業に進出したにもかかわらず、
この会社からの紹介は1軒もなかった。

ビル完成から2年間全くテナントが入らない状況だった。

そこで借金を返済するために、
持っていた不動産のほとんどを処分することになった。

それでもビル建築の返済はまったく終わりの見えない大失敗事業であった。

そのころ、弊社では、東京消防庁、警視庁、衆議院・参議院、
他東証一部上場企業への外交販売
に乗り出しており、
店の留守番を私の生まれる前からいる高橋に任せ、息子と共に回った。

息子とのコンビは実に楽しかった。

他従業員も連れて、お客様のところに外商に向かうこともあったが、
とにかく彼は熱心で私の言うことのすべてをスポンジに水が入るがごとく
吸収していった。

3年もすると、店長をしのぐ成績を上げるまでに成長するのであった。

私は、ビル事業の失敗があり、借金返済のために外商に注力した。

それも各企業を廻るにあたり、紹介者に恥をかかせたくない一心からであった。

官公庁は、3ヶ月に一度売り上げ報告義務があった。

どこの所属の人がいくらのスーツを購入したか等、事細かに報告をする。

官公庁も福利厚生の一環として業者選定には真剣であり、
役に立っていない出入り業者は撤退させる意図もあったと思われる。

営業できる時間が限られる中(昼休みとPM5:15〜6:00),
大量の服地を会議室等に持ち込み展示し、
ビラをまいてその部屋に誘導する地道な活動を続けていった。

おかげさまで東京消防庁に至っては5年間で700名以上のお客さまを獲得し、
売上向上に寄与した。

東京消防庁は、職員約18,000名、警視庁は約38,000名いる。

良く考えれば、ほぼ東京ドームの満席の定員にアプローチで出来るわけだ。

もっと頑張らねばと言う思いがふつふつとめぐる中、
息子は違うことを考えていた。

外交は効率が悪い。
“注文するか、しないか”の分からない、
衝動買いお客様候補に迷惑なチラシを配り、販売していく。

そんなビジネスモデルは、いつまで続くのであろうか?

そして、ついに激論を交わすことになる。

目先の売り上げを追いたい私
と、
洋服を本当に必要とする人に、丁寧に接客をし、
満足を与え続けることを半永久にすること

のどちらをわれわれがやるべきことなのかを真剣に議論した。

当時、外交販売でどんなに頑張っても月に50着販売できれば良い方であった。

しかし、実店舗で毎月コンスタントに100着以上売る店があった。

しかも技術のないイージーオーダー取次店だ。

驚くことに、店舗はまるで倉庫で見本の服もかかっていない。

値段も出ていない。

吹きっさらしの店舗は、ごみ、ほこりも入るが客も入る在り様だった。

その店は元々生地屋だった。

生地が売れないから、自分で生地を売る為に洋服を販売し、
生地も消費する考えの下、商売を開始したようだが、
生地屋が洋服を売るというビジネスモデルは、当時は全くなく、
直販イメージから大いにアピールでき、繁盛どころか大繁盛していた。

多い月には350着を販売したと聞いたことがある。

その店は、洋服屋との取引き、付き合いが一切ない、
無愛想な社長だが、唯一私は懇意にしてもらっていた。

その社長が当時勤めていた生地屋を退職、独立し、
お客がない頃にイージーオーダーの取り次ぎをして、
小銭を稼いでいた時期がある。

弊社が某ゴルフ場の制服の注文を取った時に、
イージーオーダーの仕事として、
その社長の会社を経由して仕事を発注した経緯があったのだ。

その恩を未だに覚えてくれており、「安積は別」と言う名の下、
息子にもいろいろと為になる話を聞かせてくれていた。

息子は、そこで学んだことを技術のある私に対し、
その店に近いやり方で今後洋服屋を営むことを求めた。

しかし私は、簡単に首を振ることが出来なかった。

運命を変えた出会い



「運命を変えた出会い。」とはあるものだ。

弊社にある1通のFAXDMがきた。

90日であなたの会社の売り上げを劇的に変える方法を知りたくないですか?

というものだった。

うさん臭いコピーの上、
その内容をまとめた資料を15万円で販売するというものだった。

私はすぐに息子に検討させ、資料を取り寄せ、購入に至った。

この出会い以降、商売のやり方を全て息子・武史に任すことになるため、
今後のこの執筆も彼に任せることにする。